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正典 英語

内科医外科医開業医

ジェームズ・モーティマー医師はDrなのかMrなのかという疑問。


 先日読んだ『ミステリ・ハンドブック シャーロック・ホームズ』(日暮雅通訳・原書房)の終わりに、「日本語読者のために ――翻訳にまつわるエピソード集」という章がありました。
 ヴィクトリア朝イギリスの文化に関する解説、翻訳のバリエーションなどを含めた書き下ろしの内容で、とても興味深く読みました。原書[1]“The Bedside, Bathtub & Armchair Companion to Sherlock Holmes”(1998) は原書で「ヴィクトリア時代の用語」という、俗語(英語)などに関するコラムがあるそうで、それ、そっちも読みたい……! というもどかしさもありましたが。
 その章の中で「内科医と外科医の呼び分け」にも触れられていて、『バスカヴィル家の犬』第1章終わり、ジェームズ・モーティマー氏の登場シーンが引用されていたので、その辺りについての話です。


 まず内科医と外科医の呼び分けについて。
 当時のイギリス社会では、医者と言えば内科医(physician)のことで、それに比べて外科医(surgeon)は一段低く見られていた、そうです。外科医の仕事は元々理容師が兼ねていたからだとか、手先を使う職業(≒労働者階級の人がやること)なので下に見られたとか、解剖研究のために墓場から死体を引っ張ってきていたので印象が悪かったとか、理由は色々考えられる模様。
 その差が呼称にも見られて、内科医は「ドクター」を付けて、外科医は「ミスター」を付けて呼ぶ、という区別があったようです。
 ちなみにワトスンさんの場合はM.D.(=Doctor of Medicine/医学博士)なので「ドクター」呼びになっている……のかと思いきや、彼が博士号を取得しているか否かに関しては議論があるそうで[2]なにやら卒業年と配属年の間が短すぎるらしい……?(自分用メモ)。前述の『ミステリ・ハンドブック』では、下記のように解説されていました。

ワトスンのほうはいわゆる開業医で、全科医として内科も外科も扱っていたと考えられる。だから、この場合のドクターは「ワトスン“先生”」とでもいうところだが、(略)

 ……内科医として学校を卒業して、そのあと外科医も兼ねたりするの……? と考えるとヴィクトリア朝イギリスの医療制度、医者のなりかた開業のしかたがものすごく気になるところですが、片手間の検索では分かりそうになかったのでとりあえず置いておきまして。
 このドクター/ミスター呼びの問題が正典に表れている箇所として『ミステリ・ハンドブック』の中で紹介されていたのが、『バスカヴィル家の犬』第1章“Mr. Sherlock Holmes”の終盤にあるホームズさんとモーティマー先生の会話。原文でいうと以下の箇所です。

…said Holmes. “And now, Dr. James Mortimer –”
“Mister, sir, Mister – a humble MRCS.”
“And a man of precise mind, evidently.”

 「ドクター」で呼び掛けられたモーティマー氏が、ミスターですと訂正しているシーン。「ただのMRCSですから」と、外科医師資格を持っているだけなのでドクター呼びは正しくない、と言っているようです。
 が、上記のワトスンさんは開業医だから博士でなくともドクター呼びが成り立つ、という話を踏まえるなら、モーティマー先生もダートムアで開業医を……しているのでは……?
 現にそのあとの会話におけるホームズさんの呼び掛けも、ワトスンさんが書いた地の文章での呼称も、モーティマー先生に関しては一貫して“Dr. Mortimer”になっています。依頼の際に読み上げられた新聞記事でもDr. Mortimer表記、その後の物語中で何ヶ所か呼び捨てにされていることはあっても[3]呼び捨ての例:
・第3章終わりでホームズさんと会話をしているワトスンさん(“Mortimer said that the man had walked on tiptoe down that portion of the alley.”)
・第7章でワトスンさんと会話するステープルトン氏
・第10章ワトスンさんの日記の文
・第10章回想の中のワトスンさん(“By the way, Mortimer,” said I as we jolted along the rough road, “)
・第14章のホームズさん(“A dog!” said Holmes. “By Jove, a curly-haired spaniel. Poor Mortimer will never see his pet again. )
、「ミスター」で呼ばれている箇所は見当たりませんでした。

 よく分からないのでひとまずモーティマー先生の立場を確認すべく正典を確認したところ、物語の冒頭でワトスンさんが参照した“the Medical Directory”に記されていたモーティマー先生の身分・職業は以下の通り。

  • M.R.C.S. (=Member of the Royal College of Surgeons)
  • House surgeon[4]house surgeon – コトバンク(=住み込みの外科医)
  • Medical Officer[5]medical officer – Collins English Dictionaryfor the parishes of Grimpen, Thorsley, and High Barrow

 ……これを見た限り、外科医なのでは、という気がするんですが!
 Medical Officerが肝なんでしょうか……「医官」と訳されているこの役職、創元推理文庫新訳の訳注によると「担当する教区の医事、保健衛生全般に責任を持ち、監察医の役目も担う」人のことだそうなんですが、ここに内科医的な仕事も含まれてくるのか……どうなのか……?
 加えて、外科医相手にも丁寧に呼ぶときは「ドクター」と言うこともある、という話も見掛けたのでもう何が何やらです。

 結論:なんか分かんないけどモーティマー先生は“Dr”。


 ちなみにの話。
 お仕事の内容で呼称が決まる、というのが重要でないなら、なぜ上記のシーンでモーティマー先生に「ミスターです」と訂正の台詞を挟ませたのかなァ、というのも疑問です。
 そして訳を見比べてみたらホームズさんの言った“a man of precise mind”には解釈が複数あるようだと気付いたので、手元で引用できるものを並べておきます。

「それでジェームズ・モーティマー博士、あなたは……」
「いえ、博士じゃありません。ただの王立外科医学協会の準会員にすぎないのですから……」
「それではごく几帳面なお人がらのわけですな」

新潮文庫版(延原謙訳)

「で、うかがいますが、ジェームズ・モーティマー博士――」
「いえ、ミスターです。博士ではなく――一介の王立外科学会会員にすぎませんよ」
「とはいえ、緻密にものを考えられるお人柄のようだ」

創元推理文庫新訳版(深町眞理子訳)

「ところで、ジェイムズ・モーティマー先生――」
「先生はやめてください――私は一介の英国外科医師会員にすぎないんです」
「そして、緻密な頭脳の持主でいらっしゃる」

ハヤカワ・ミステリ文庫版(大久保康雄訳)

「ところで、ドクター・ジェームズ・モーティマー――」
「ミスター、ただ、ミスターと呼んでください――ほんの外科学会員ににすぎないのですから」
「それに、まちがいなく頭のいい方とお見受けした」

岩波少年文庫版(林克己訳)

「ところで、モーティマー博士――」
「博士はよしてください。一介の王立外科医師会会員に過ぎないのですから」
「ずいぶんと謙虚ですね」

角川文庫新訳版(駒月雅子訳)

孫引きになりますが『ミステリ・ハンドブック シャーロック・ホームズ』に記載の訳

「ところで、ドクター・ジェイムズ・モーティマー……」
「いや、ミスターです。ミスター――王立外科医学校免許証を持っているにすぎませんから」
「きちょうめんな方ですね、ほんとうに」

『詳注版 シャーロック・ホームズ全集』(ちくま文庫)

 モーティマー先生の訂正に対して、「わざわざ外科医である旨を言い添えてくるとは几帳面な」という反応と、「『ただの』とは仰るが医師の一人、明晰な頭脳の持ち主なのでしょう」という反応、あとはその中間というかグラデーションというか、「緻密に物を分けて考える、聡明さが窺えますね」というニュアンスに取れる訳もある、という感じでしょうか。
 これを「几帳面な」という意味で取るなら、Drと呼ばれている(実質的にはDrが手掛けるような仕事もしている)けれども厳密に言うならMrの立場、ということをわざわざ補足する遠慮がちな人、真面目な人という人物描写なのかなァと思います。
 そして「頭脳明晰」という意味で取るなら[6]precise mindというとこちらの訳になるようす。have a precise mind – 英辞郎、このあと「巨大な犬の足跡を見た」と証言するこの人物は学のある、頭のいい人物であるということを示しておいて、物語の謎を盛り上げる効果があるのかなァと……思ったりもしています。

References

References
1 “The Bedside, Bathtub & Armchair Companion to Sherlock Holmes”(1998)
2 なにやら卒業年と配属年の間が短すぎるらしい……?(自分用メモ)
3 呼び捨ての例:
・第3章終わりでホームズさんと会話をしているワトスンさん(“Mortimer said that the man had walked on tiptoe down that portion of the alley.”)
・第7章でワトスンさんと会話するステープルトン氏
・第10章ワトスンさんの日記の文
・第10章回想の中のワトスンさん(“By the way, Mortimer,” said I as we jolted along the rough road, “)
・第14章のホームズさん(“A dog!” said Holmes. “By Jove, a curly-haired spaniel. Poor Mortimer will never see his pet again. )
4 house surgeon – コトバンク
5 medical officer – Collins English Dictionary
6 precise mindというとこちらの訳になるようす。have a precise mind – 英辞郎