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Merrison版 グラナダTV版 正典

根は山羊の足

“Radix pedis diaboli”は人体にどんな影響をもたらすのかという話。


 1947年1月13日放送だったコンウェイ&ブルース版ラジオドラマの“The Devil’s Foot”を聴きました。
 番組のなかで、昔語りが終わったあとにアナウンサーから「煙に包まれたとき見えたものは何だったんですか?」と訊ねられたワトスンさんが、「口にするのも恐ろしい、考えただけで血の凍る思いをする」ものだったと答えていまして。作中に登場する毒のことは漠然と「恐怖を与える、人を発狂たらしめる毒」というイメージでいたので、恐ろしいものの幻覚を見せる作用があるという捉え方が意外だったというか何と言うか、興味深く思いました。
 「悪魔の足」での実験シーンは各媒体で色んな描かれ方をしているけれども、それを単なる錯乱としてではなく「彼が心の内で恐ろしいと思っているもの」を見ているのだとして受け取ると、印象が変わってくるものもあるのかなァと……わたしは今まで各種実験シーンをどう認識していたのかと自分で自分にツッコみたくなるんですが、新しい視点を得たような気持ちになっています。
 その流れで「悪魔の足」に登場する毒、“Radix pedis diaboli”の働きが気になったので、以下自分用まとめをば。


 まず正典では、「悪魔の足の根」に関して一番詳しいであろうスターンデール博士が以下のように話しています。
(下線は引用者)

“[…] and I told him of its strange properties, how it stimulates those brain centres which control the emotion of fear, …”

The Devil’s Foot

 この台詞によると「悪魔の足の根」は「恐怖の感情を司る脳中枢を刺激する」もののようです。
 他に毒の効果に関する描写を見てみると、ラウンドヘイ牧師は一つ目の事件現場の様子を以下のように語っています(日本語訳は新潮文庫版・延原謙訳)。

“All three of them, the dead woman and the two demented men, retained upon their faces an expression of the utmost horror – a convulsion of terror which was dreadful to look upon.”

「三人とも――死んだ婦人も発狂した男子も、みんなその顔に極度の恐怖を浮かべていました。/恐怖に顔がひきつって、正視にたえないばかりの表情です。」

 実験のシーンではワトスンさんがホームズさんの表情を“drawn with horror”と表現していたり、そのとき自分達を捕らえていたものを“the hellish cloud of terror”と称していたりします。


 正典原文を確認してfearもhorrorもterrorも使われていることが判明した時点で、よーしもう分かんないぞ! という感じなんですが、一応各単語の意味を英英辞書で引いておきます。
(灰色テーブル内は拙訳)

fear

an unpleasant emotion or thought that you have when you are frightened or worried by something dangerous, painful, or bad that is happening or might happen:

危ないことや痛みをもたらすこと、悪いことが起きているもしくは起きそうで、怖かったり心配したりしているときに、あなたが抱く嫌な気持ちや不愉快な考え

fear in English – Cambridge Dictionary

1. [variable noun] Fear is the unpleasant feeling you have when you think that you are in danger.
2. [verb] If you fear someone or something, you are frightened because you think that they will harm you.
3. [variable noun] A fear is a thought that something unpleasant might happen or might have happened.

1.自分が危険な状態になると思うとき、あなたが抱く嫌な気持ちのこと。
2.あなたが誰かあるいは何かをfear(している)なら、あなたはそれらが自分を害するだろうと思って怖がっている。
3.何か不快なことが起こるかもしれない、あるいは起こったかもしれないという考えのこと。

Definition of ‘fear’ – Collins English Dictionary

 身体的な危険から精神的な不快さまで含めて、望ましくない事態に際して生じる、怖かったり嫌だったり不愉快だったりする気持ち、という感じでしょうか。
 ほうほう、と思いながらhorrorとterrorの意味を確認すると、案の定説明に“fear”が入って来てたらい回しにされました。

horror

1.Horror is a feeling of great shock, fear, and worry caused by something extremely unpleasant.
2.If you have a horror of something, you are afraid of it or dislike it very much.

1. 極めて不快なものによって引き起こされる強いショック、恐怖、心配のこと。
2.あなたが何かに対してhorrorを抱いているなら、あなたはそれを恐れていたり、それのことがとても嫌いだったりする。

Definition of ‘horror’ – Collins English Dictionary

1.a: painful and intense fear, dread, or dismay

苦痛を伴う激しい恐怖、不安、狼狽

Definition of horror – Merriam-Webster

 terrorも似通っていますが以下のような感じ。

terror

1. [uncountable noun] Terror is very great fear.
2. [uncountable noun] Terror is violence or the threat of violence, especially when it is used for political reasons.
3. [countable noun] A terror is something that makes you very frightened.

1.非常なる恐怖のこと。
2.特に政治的理由のために振るわれる、暴力や暴力の脅威のこと。
3.あなたをとても怯えさせるもの。

Definition of ‘terror’ – Collins English Dictionary

1. Extreme fear.
1.1 The use of extreme fear to intimidate people.
1.2 Terrorism.
1.3 A person or thing that causes extreme fear.

1. 極度の恐怖。
1.1. 人々を脅すことを目的とした極度の恐怖の利用。
1.2. テロリズム。
1.3. 極度の恐怖を起こさせる人や物。

terror – English Oxford Living Dictionaries

 “horror”も“terror”も強いfearという点では同じ、双方意味合いの重なる部分もありつつ、horrorがぎょっとする感じや避けたいものというニュアンスを含むのに対して、terrorは生命を脅かすもの、暴力的要素も内包している……ような印象です。


 と、ここまで並べておいて何ですが、「人を発狂させるような恐怖」と「心の内で恐れているもの」って違いますよね。
 ……あれ、違いますよね? 考えている内にいまいち分からなくなって来て、そもそも「恐怖のあまり死亡」というのは何なんだい、というところにまで疑問が及んでネットをふらふらした結果、予期せぬところでホームズネタに出会ったりもしました。

「死ぬほど怖い」と言うが、人は恐怖で死ぬことがあるのか?答えはイエス。 ― カラパイア

 「バスカヴィル効果」の話はともかく、生命の危機を感じてアドレナリンが分泌される、それが過剰な量に達すると心室細動を起こして死に至る可能性がある、と。毒の影響がある場合アドレナリンの分泌が先なのか恐怖の感情が先なのかよく分からないんですが、脳が恐怖を呼び水にして、本人が命の危機を感じるもの、恐れているものの幻覚を見せても不思議ではなさそうですよね。
 ……グラナダ版ホームズさん、モリアーティ教授[1]何をどこまでネタバレしていいのか判断しかねたので隠しておきます。に生命の危機を感じていたのかなァと思うと何やら感慨深いものがあります。冷静に考えれば、自棄になった悪人が殺意を持って向かって来ているのだからして命を危ぶまなかったわけがないだろうと思うんですが、なんかこう、ホームズさんって怖いものあるの? という印象がどうしても拭えず……この辺は先人の考察がありそうなので、またじっくり探してみたいです[2]既に少し検索してしまって色々深堀りしたい欲に駆られています……幻覚シーンに出て来る絵画(の一部)、ネブカドネザルとカインなんですね!
 そしてこの回で注射器を手離していることも合わせて考えると、彼は彼なりに「死」というものに思うところがあったのかなァと、そこも感じ入るものが。


 最終的にもはや余談の域ですが、“Radix pedis diaboli”の設定は作品によって幾分異なっている気もしたので書き残しておきます。

 1947年放送のコンウェイ&ブルース版では、ホームズさんが「想像に関する神経中枢を刺激する毒[3]Youtube字幕によれば”it’s a poison that affects the nerve centers of the imagination” 」だとワトスンさんに説明していて、スターンデール博士の口からは特に何も語られていません。
 ここの実験シーンではワトスンさん視点で恐怖が描写されていまして、ワトスンさんは「何かが近付いて来る、蹄の足音がする!」と怯えた様子で叫びます。物語の冒頭でホームズさんが「この辺りには悪魔が住みついていたと言われているんだよ」というような話をしているので、ワトスンさんが悪魔を恐れているというよりも、ホームズさんの言の影響で想像が刺激されて、悪魔の幻覚を見た、という感じでしょうか。
 ちなみにここのお二人はホームズさんがワトスンさんを助ける形、ラスボーン版(映画)から伝統を引き継いだのか窓を割るホームズさんも居ました。

 BBCラジオ(Merrison)版だと、毒の作用について話している台詞が存在しない……ような気がしています。被害者が言い表し難い恐怖の表情を浮かべていたという話は出ているんですが、実験時にも、博士の口からも、毒がどんなものかは語られていないような。
 ホームズさんがあの幻覚[4]「このまま二人死んでしまおう」というワトスンさんの囁きから始まる、ワーグナー作「トリスタンとイゾルデ」の台詞の引用。に生命の危機を感じていたかというと疑問なんですが、そのまま死んでしまいそうだったという意味では、体はアドレナリンを分泌して赤信号を出していたのかなァと思わないでもないです。あるいは「恐怖」というカテゴリに捕らわれず、もっと自由に捉えてもよいのかな、という気も。

2023/05/13 レイアウト調整

References

References
1 何をどこまでネタバレしていいのか判断しかねたので隠しておきます。
2 既に少し検索してしまって色々深堀りしたい欲に駆られています……幻覚シーンに出て来る絵画(の一部)、ネブカドネザルとカインなんですね!
3 Youtube字幕によれば”it’s a poison that affects the nerve centers of the imagination”
4 「このまま二人死んでしまおう」というワトスンさんの囁きから始まる、ワーグナー作「トリスタンとイゾルデ」の台詞の引用。