カテゴリー
原文 正典

砂漠に残る

正典「The Engineer’s Thumb(技師の親指)」冒頭と「The Blanched Soldier(白面の兵士)」冒頭、離れて暮らす自分達を「置き去りにした/された」と表現しているお二人について。


 正典新潮文庫の二周目、『シャーロック・ホームズの冒険』を読み終えました。一周目には気付かなかったこと、他の作品を知っているからこそ気付くことも見付かったりして楽しいです。
 そんな中の『冒険』第9編、「技師の親指」冒頭。

またもとのように開業することになったので、私はベーカー街にホームズを独りおきざりにはしたが、それでもちょいちょい訪ねてはいったし、(後略)。

技師の親指(延原謙訳)


I had returned to civil practice and had finally abandoned Holmes in his Baker Street rooms, although I continually visited him … .

The Engineer’s Thumb – Arthur Conan Doyle

 この一文、省略した部分も含めて既に語りたい対象なんですが、とりあえず「おきざり」という単語に注目します。
 シャーロック・ホームズシリーズで「置き去り」と言えばホームズさんの執筆した二編のうちの一つ、「白面の兵士」。ワトスンさんの結婚について、公の出版物で開けっぴろげに愚痴るホームズさん、というイメージです。

当時ワトソンは私を置き去りに結婚していたが、知りあってから後にもさきにも、これがただ一度の自分本位な行動であった。私は一人ぼっちだったのである。

白面の兵士(延原謙訳)

The good Watson had at that time deserted me for a wife, the only selfish action which I can recall in our association. I was alone.

The Blanched Soldier – Arthur Conan Doyle

 こちらも“the good Watson”……![1]愚痴部分なので皮肉の意味もあるのかもしれない……?という衝撃がありますが、ひとまずこれも置いておきまして。
 少なくとも延原先生訳では同じ「おきざり/置き去り」という単語が使われているこの部分、原文だとワトスンさんは“abandon”、ホームズさんが“desert”と各々別の単語で表現しているので、どんな違いがあるのか見てみました。

 まずはワトスンさんの使った“abandon”ですが、初っ端から同義として“desert”が紹介されていて出鼻をくじかれます(笑)。
(灰色のテーブル内は拙訳)

1 Cease to support or look after (someone); desert.
1.1 Leave (a place or vehicle) empty or uninhabited, without intending to return.

abandon – Oxford Dictionaries

1.(誰か)を支援する/世話をするのをやめる
1.1 もう戻らないつもりで、(場所や乗り物を)空にしたり居住者の居ない状態で置いていく

1. to leave someone when you should stay with them and look after them
1a. [INFORMAL] to suddenly leave someone that you are with

abandon – Macmillan Dictionary

1.  一緒に居て面倒を見るべきなのに、その人を置き去りにすること
1a. [口語]共にいる人の元を急に去る[2]これ「お付き合いしている人と突然別れる」という意味では? とは思うんですが根拠となるものが見付けられないので、とりあえず直訳で置いておきます。

 まとめて考えると、「本来は傍に居るべき、あるいは元々は傍に居たけれど、それを途中でやめて離れる」というニュアンスでしょうか。……傍に居て何をするかは様々なようですが、中年英国紳士二人の話のはずなので、“support”の意味で取っておきます!
 場所や乗り物に対して使う場合は「戻らないつもりで」という意味合いもあるみたいなので、まァいつかは離婚してまたホームズと暮らそう、とか思っているワトスンさんは嫌だよな、うん……と思ったりもしました。[3]「技師の親指」での原文はabandon Holmesなので、この用例には当てはまらないわけですが、それを確認する前に「戻らないつもりだー!?」と思ってしまったので。

 続いてホームズさんの使った“desert”。前述の通り、意味するところはabandonと似通うようですが、やはりニュアンスの違いはあるようです。

1 Abandon (a person, cause, or organization) in a way considered disloyal or treacherous.
1.1 (of people) leave (a place), causing it to appear empty.
1.2 (of a quality or ability) fail (someone) when most needed.

desert – Oxford Dictionaries

1 不誠実な、あるいは信頼を裏切ったと思われる形で(人、主義、組織を)見捨てること
1.1 (人が、場所を)離れ、その場所ががらんとして見える
1.2 (資質や能力が)最も必要とされているときに(人の)役に立たない

1. to leave someone in a situation where they have no help or support
1a. if people or animals desert a place, no one is left there
[…]
4. if a feeling, quality, or skill deserts you, you suddenly no longer have it

desert – Macmillan Dictionary

1. 誰かを手助けや支援のない状況に置いていくこと
1a. 人や動物がある場所をdesertする場合、そこには誰も残らない
4. 感情や資質、能力があなたをdesertする場合、あなたは突然それを失う

 Oxford Dictionaryの、定義……![4]disloyal:不忠な,不誠実な;裏切りの;不義の
treacherous:不誠実な,裏切りをする,寝返る/頼りにならない/不安定な

 abandonよりもdesertの方が、置いていかれた側がぽつんと残されているような、去って行かれて周囲ががらんとしてしまったようなイメージで、残された方の心情に比重があるのかなァという気がします。ワトスンさんは人間であって能力(ability)でも気持ち(feeling)でもないんですが、「必要としているのに」「突然に失ってしまった」というニュアンス、正典原文の“ I was alone.”と重ねて考えると切ないです。

 というわけで、確認を終えまして。
 諸々参考にした結果、ホームズさんの単語の選択は「221Bにワトスンさんが居なくなって寂しい、独りぼっちになったような気持ち」から来ているんだろうなという結論で問題ないと思うんですが、予想外にワトソンさんが……分からない……! という状況です。
 ワトスンさんは居るべき場所に居ないという引け目に思う気持ちがあったのかどうか……ホームズさんをsupport/look afterしているという意識はあったんでしょうか、出来ることなら今後もし続けたかったけど、でも、一人前の紳士として妻を迎え家を持ち召使を雇うという常識的な道を選んだ……?[5]「技師の親指」の中でホームズさんの振る舞いを“his Bohemian habits(≒特に芸術家に見られる型破りな生き方、行動)”と書いているのは、自分が選択した一般的な中流階級男性の生き方と対比させてのこと……?(深読み)
 ……などということはまた改めて考えるとして、とりあえず今回は語義のメモに留めておきます。

 そういえば二人が挙げている「置き去り」の原因、ワトスンさんは「町医者に戻って、それで(I had returned to civil practice and)」という流れで説明していて、ホームズさんは「妻(for a wife)」とものすごく端的に書いているので、その点でも二人の書き方は違うなァと思いました。ホームズさんの書きぶり可愛い。

2022/04/12 レイアウトと細部の修正

References

References
1 愚痴部分なので皮肉の意味もあるのかもしれない……?
2 これ「お付き合いしている人と突然別れる」という意味では? とは思うんですが根拠となるものが見付けられないので、とりあえず直訳で置いておきます。
3 「技師の親指」での原文はabandon Holmesなので、この用例には当てはまらないわけですが、それを確認する前に「戻らないつもりだー!?」と思ってしまったので。
4 disloyal:不忠な,不誠実な;裏切りの;不義の
treacherous:不誠実な,裏切りをする,寝返る/頼りにならない/不安定な
5 「技師の親指」の中でホームズさんの振る舞いを“his Bohemian habits(≒特に芸術家に見られる型破りな生き方、行動)”と書いているのは、自分が選択した一般的な中流階級男性の生き方と対比させてのこと……?(深読み)