「緋色の研究」で戦場での経験について言及するワトスンさんの台詞について。
「アフガニスタンの経験をもつぼくとしては、もっと物ごとに動じない人間になっていてもいいはずなのだがね。あのマイワンドの戦いでは、戦友がずたずたに切り殺されるのを見ても、平気だったんだから」
「緋色の研究」阿部知二訳(創元推理文庫)
正典の文章を引用しているtwitterのbot、「ジョン・H・ワトスン(@JHWatson_bot)」さんのツイートでこの台詞を見掛けて、こんなこと言ってましたっけワトスンさん「平気」とはどういう方向で……? と興味を持ったので原文を見てみました。
引用元は“A Study in Scarlet”、第5章“OUR ADVERTISEMENT BRINGS A VISITOR”の前半部分。コンサートから帰ってきたホームズさんがワトスンさんと会話する場面です。
(下線は引用者)
“What’s the matter? You’re not looking quite yourself. This Brixton Road affair has upset you.”
A Study in Scarlet – Arthur Conan Doyle
“To tell the truth, it has,” I said. “I ought to be more case-hardened after my Afghan experiences. I saw my own comrades hacked to pieces at Maiwand without losing my nerve.”
下線部が件の台詞部分、「平気だった」は“without losing my nerve”という表現のようです。
ちなみにその前部分でホームズさんに「どうしたんだ、いつもと違うな。ブリクストン・ロードでの事件で動揺しているんだろう」と言われたワトスンさん、「実を言うと、そうなんだ」と返しているんですね。動揺しているという前提があると、阿部知二さん訳の「平気だった」という部分もちょっと印象が違って感じられるような気がします。
そして本題の“without losing my nerve”。
ワトスンさんの発言は「マイワンドでは細切れにされた自分の戦友を lose my nerve することなく見た」という内容で、”lose one’s nerve”というイディオムの意味は以下の通り。
臆病風に吹かれる、気後れがする、腰砕けになる、怖気づく、怖じ気づく、怖気付く、怖じ気付く、引ける
lose one’s nerve – weblio 辞書
英々辞書でのnerveの意味には、以下の見出しがありました。
(灰色のテーブル内は拙訳)
2(one’s nerve” or “one’s nerves)One’s steadiness and courage in a demanding situation.
厳しい状況における人の冷静さと勇気
nerve – Oxford Dictionary
上記を踏まえて考えるに、ワトスンさんの言う「平気だった」というのは何も感じなかったというわけではなく、それによって冷静さや勇気を失わなかった、取り乱したり逃げ出したりしなかった、ということなのかなァと思います。
そして阿部知二さん訳でも「戦友」と訳されているcomrade、英日辞書で意味を見ると「〔苦楽を共にした〕同僚、仲間[1]comrade – 英辞郎」と出てくるので、この単語を使ったワトスンさんはどんな気持ちだったんだろうなァと思ったりも[2]しかし英々辞書を見るとcomradeは「同じ組織にいる同僚、特に軍隊での仲間」というふうに解説されていて、特別に感情が籠っているという感じではないのかな、という気もします。。
ここの台詞、「元軍人でありながら殺人事件で動揺するなんて、自分で自分が情けない」という恥じ入る発言にも思えるし、「あのとき冷酷にも戦友の死体を冷静に見ていた自分だが、まだ人間らしい部分が残っていたらしい」という自嘲まじりの発言とも取れるような気がします。
ということを考えていたらワトスンさんの発言の前半部分、“I ought to be more case-hardened”も気になったので以下メモ代わりに引用を。
case-hardened:
1〈鉄・鋼鉄の〉表面を硬化させる,〈…に〉焼きを入れる.
case harden – weblio 辞書
2〈人を〉無神経にする.
1.2 Make (someone) callous[3]callous:硬くなった、たこになった、無感覚な、無感覚で、平気で(weblio 辞書) or tough.
case-harden – Oxford Dictionary
ought to は「~する義務がある」「~するはずだ」と訳される、shouldよりも状況的な義務、状況的な推量の意味合いが強い……感じ……? また追々調べたいです[4]「“Must, should, or ought to?” by OxfordWords BLOG」なんかを参考に……また……。
そしてこのワトスンさんの言葉にホームズさんは“I can understand. There is a mystery about this which stimulates the imagination; where there is no imagination there is no horror. ”と返していて、この「分かるよ(I can understand.)」は「実を言うと動揺している」に対する理解、共感かなァ重い話をさらっとスルーするなァホームズさん、と思っていたんですが。
「想像力の働かないところには恐怖も存在しないのだ(where there is no imagination there is no horror. )」という部分、ワトスンさんが戦場で losing my nerve しなかったという発言と対応してますよね、たぶん。目の前に揺るぎなく突き付けられた現実は恐怖心を呼び起こさないだろう、分からない部分がある、解き明かされていない箇所があるから想像力を刺激されて恐怖/動揺するのだ、と戦場経験者に語るホームズさん、なんというか、一作目からキャラが立ってるなァと……!
当時のイギリスで従軍経験者の戦場での経験談というものがどういうふうに扱われていたかは分からないんですが、このホームズさんの返答、おそらく一般的な反応ではないですよね。ワトスンさんの気持ちが前述した自嘲方向だった場合、ホームズさんの言葉には「君がそのとき冷静でいられたのはちっとも不思議なことじゃない、君がおかしいわけじゃないさ」という含意も読み取れるのでは、と思ってたいへんときめいています。ホームズさんにそんなつもりはなくてもいいし、そんなつもりがちょっとくらいあってもいい。
あとものすごーく余談なんですが、阿部知二さん訳(創元推理文庫旧版)のホームズさん、やわらかめの敬体とふんわりきっちり混在型の常体がいりまじっていて、なんとも不思議な印象……上記で引用した台詞の部分も、「ところで君、どうしたの? 顔色がよくない。ブリクストン通りの殺人事件でまいったのじゃないかな」となっていてとても可愛いです。
2022/04/14 レイアウトの調整
References
↑1 | comrade – 英辞郎 |
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↑2 | しかし英々辞書を見るとcomradeは「同じ組織にいる同僚、特に軍隊での仲間」というふうに解説されていて、特別に感情が籠っているという感じではないのかな、という気もします。 |
↑3 | callous:硬くなった、たこになった、無感覚な、無感覚で、平気で(weblio 辞書) |
↑4 | 「“Must, should, or ought to?” by OxfordWords BLOG」なんかを参考に……また…… |