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原文 正典

神ならぬものの

正典『緋色の研究』原文にある”ungodly hours”が何を指すのか、という話。

 『緋色の研究』第一章、ワトスンさんがホームズさんと出会って同居の相談をしているところに、以下のような台詞があります。

[..] “and I object to rows because my nerves are shaken, and I get up at all sorts of ungodly hours, and I am extremely lazy. [..]”

 ホームズさんに「同居をするなら、先にお互いの悪いところを知っておいた方がいい」と言われて、ワトスンさんが自分の悪癖を挙げている箇所です。
 新潮文庫版での訳は以下の通り。

「.. それから神経が疲れているから、すべて騒々しいのはご免こうむりたいです。そして起床時刻はでたらめで、ひどい無精ものです。 ..」

 この直後には”I have another set of vices when I’m well”、調子が良い時には他の悪い癖が出ることもありますが、という台詞があって、この”another set of vices”に女たらしであることが入るのではないか、という説も聞いたことがありますが、まァそれは置いておきまして。

 先日、ドイツ語版正典オーディオドラマ・シリーズ”Sherlock Holmes Legends”の『緋色の研究[1]” Eine Studie in Scharlachrot I: Drebber” https://youtu.be/Cyh3ZOfpMD0?si=qbqgSIgLw6sBVyV3』を聴いていて、上記台詞の”I get up at all sorts of ungodly hours”部分のドイツ語が機械翻訳によって「私はよく昼寝をします」と訳されていたことを切っ掛けに、ふと思ったことが以下です。

……Merrison版のシリーズ初期ってワトスンさんの寝息を聞く機会が多かった記憶があるんですが、それってこの記述の影響があったりします……? 起床時間がまちまち→夜ちゃんと眠れていないことがある→日中に居眠りすることも多い、という流れだったりします!?

巡 (@meguru8192.bsky.social) 2025-05-30T13:52:03.719Z

 疑問をブログにまとめるにあたって、その「昼寝」部分がドイツ語ではどういう表現になっているのか確認しようとしたんですが、自動生成の独語字幕で”sind auch schlafe ich oft in den tag hinein”と表示されている辺り……なのかな……というところまでしか分かりませんでした。ドイツ語勉強し直したい!
 ちなみに上記のドイツ語を機械翻訳で英語にしてもらうと、”I also often sleep into the day”でした。これは昼寝というよりも寝坊というか、昼近くに起きて来るような感じですかね。

 ともあれ、ここって日訳版の正典だと「生活が不規則」みたいな感じで、夜上手く眠れていないみたいな印象はあんまり無かったよね……? いやでも直前に「神経が疲れている(my nerves are shaken)」とあるし、わたしが気付いていなかっただけで、これはワトスンさんが戦場で心にも深く傷を負っているということが示されている部分だったりする……? と気になったので、参照できる『緋色の研究』を掘り返して並べておきます。

新潮文庫版(延原謙訳)

「それから神経が疲れているから、すべて騒々しいのはご免こうむりたいです。そして起床時刻はでたらめで、ひどい無精ものです。」

創元推理文庫版(新版/深町眞理子訳)

「神経をやられているので、騒々しいのは好みません。起床時間はおよそ不規則だし、おまけにとてつもない怠け者。」

創元推理文庫版(旧版/ 阿部知二訳)

「それから神経をいためているので、騒々しいのは好みません。朝おきる時間は、ぜんぜんでたらめで、そのうえ、ひどい怠け者です。」

早川文庫版(大久保康雄訳)

「それから、神経が弱っているので、騒々しいのは困るんです。朝起きる時間は、まったく不定で、ひどい怠けものです。」

コンプリート・シャーロック・ホームズ

「神経が弱っているので騒音は嫌いだ。とんでもない時間に起きる。そして非常に怠け者だ。」

コンプリート・シャーロック・ホームズ

 「起床時刻」とか「朝起きる時間」とかの言葉が使われていることに加えて、その直後に“lazy(無精者,怠け者)”という表現があるので、自堕落な生活を送っているんだな~というのがストレートな受け取り方……でしょうか。
 一方で、夜眠れていない(ので夜中に目が覚めたり、明け方にやっと寝付けて昼頃起き出したりする)ことが多い、というふうに読もうと思えば読めなくもないかな、と思います。

 軍人さんって規則正しい生活をしていそうなイメージなので、国に帰って来てそれがすぐになくなってしまうことはあまり無さそう、それが崩れているということは不調の表われなのではという気もするし、自由になると共に半ば自棄にもなって生活リズムを崩してしまうというのも人間として自然な流れな気がするし[2]あるいは療養生活の間に生活リズムが乱れてしまうのというのもありそう、そもそもお医者さんは夜中に叩き起こされることなんかもあるだろうから軍隊で生活していても多少不規則になりそうな気もするし……と考えていると何も分からないです!


 そも原文の意味もふんわりとしか理解していないのでは、と気付いて単語の意味も確認したので、記録を残しておきます。(墨括弧内は拙訳)

all sorts of

many different kinds of something
【多くの異なる種類の〇〇】

all sorts/kinds/types of something – Longman

 確認はしてみたけどそうだよね……という感想です!

ungodly hour

a time of day that is unreasonably early or late
【一日の中で、理に適わないほどに早いもしくは遅い時間】

ungodly hour – Merriam-Webster

 Quoraの質問に対する回答などを読んだ印象では、「一般的に人が寝ているとされる時間」を指す、というのが現代の感覚なのかなと思われます。
 加えて、「ungodly hourに起床する」という表現だと、「早朝」を指すことがほとんどの様子。Colins Dictionaryの語義説明では、「遅い」の方の記述はなく、「とんでもなく朝早い」という意味のみが紹介されていました。

 なんですが、正典は100年以上前に書かれたものであり、ワトスンさんの言っているのは慣用句化する前の、”ungodly”+”hour”なのでは……? という気もします[3]古い用例のメモ:その①その②

ungodly

(old-fashioned) not showing respect for God; evil
【(古)神へ敬意を示さない,邪悪な】

ungodly – Oxford Advanced Learner’s Dictionary

 「邪な、ちゃんとしていない」という意味であれば、お昼が近くなってから起き出してくることもここに含まれるんじゃないでしょうか。

 更にワトスンさんの発言でいうと、”ungodly hour”の前に”all sorts of”が付いています。「朝早い時間も夜遅い時間も全部含んで」の意味だとも解釈できるし、「あらゆる種類のとんでもない時間(昼近くになってから起きたりもしちゃうよ)」の意味だとも解釈できる、どちらか判断する決め手はない……んじゃないかなァと……[4]※自信はない

 でも各社の翻訳家の皆さんは軒並み同じような訳し方をしているんだよなーとか、仮に精神が参っていて夜に上手く眠れていなかったりしても、初対面のホームズさん相手にワトスンさんがぼかした言い方をしていても不思議ではないよねとか考えていたのが第一段階でした。


 第二段階として、”get up”という句動詞の方に朝のニュアンスが付随するのでは? と思ったので、そこを追記しておきます。

 まず”get up” の語義(墨括弧内は拙訳)。

get up

1. 起き上がる、立ち上がる、起床する

get up – 英辞郎

2. When you get up, you get out of bed.
 【get upするとき、あなたはベッドから出る】

get up – Colins Dictionary

 似た意味を持つ”wake up”の場合は眠りから覚めること、意識が覚醒することに焦点があるのに対して、”get up”は起きること、寝床を離れることに主眼があるようです。
 二つの句動詞の違いを説明しているサイトでは、”get up”を「(多くの場合、一日を始めるために)ベッドから出る」の意味、と紹介している例[5]https://www.vocabulary.cl/english/wake-up-get-up.htmもありました。”get up”に朝のイメージ、すごくありそう……

 とはいえ、用例が完全に朝に限られるというわけでもないようで、ネット上では以下のような例文も見掛けました。

got up in the middle of the night to find myself another blanket because I was cold.

https://www.vocabulary.cl/english/wake-up-get-up.htm

I got up three times to go to the bathroom last night.

https://www.englishalex.com/post/the-difference-between-wake-up-and-get-up-uses-and-practice-questions-audio-reading-included

 「寝床を離れる」という動きを含んで「起きる」のであれば、夜中であっても人はget upしうるようです。

 ということは、たとえばワトスンさんが、夢見が悪くて夜中に起きてしまったときに、諦めてベッドを出て居間で小説でも読むか……という選択をするタイプだった場合、その行動というか傾向、習慣はwake upではなくget upで表されますよね多分。いやそんなことが習慣になってしまうほど夜眠れていないワトスンさんは気の毒なので、ぐっすり眠っていてほしいのですが!


 そんなこんなで、自堕落ワトスン説と不眠ワトスン説、それぞれに根拠を考えるなら以下のような感じかなと思います。

自堕落
(昼まで寝ている)
不眠
(夜中~早朝に目覚めることがある)
①先人の訳
 各社の翻訳家さんたちが「朝起きる時間がまちまち」という方向の訳をしている
①”ungodly hour”の意味
 1840年には使用例がある[6]https://www.etymonline.com/word/ungodlyらしい
②文脈
 直後に”lazy”という言葉がある
②文脈
 直前に”my nerves are shaken”と言っている
③get up
 素直に受け取れば朝の起床の話
③all sorts of
 allと言うからにはあらゆる時間帯のことなのでは?

 真面目に考えるなら左カラムの①で終了、各翻訳を担当された先生方を信用しておくのが良いのでは! という話ではあるんですが、まァ二次創作するときの選択肢としては「夜中に目が覚めてしまう」解釈もありかなァ……くらいの気持ちです!
 そして英語圏の読者の人がどう思っているのか聞きたい。


 余談ですが、事の発端となったMerrison版[7]「BBCラジオ版」と呼ばれることの多いシリーズ。BBCで制作・放送された正典ラジオドラマは他にもあるので、個人的にはMerrison版で分けて呼んでいる。のワトスンさんが具体的にどれくらいの頻度で居眠りをしていたかは記憶が薄いので、そちらも追々確認したいです。

2020/06/03 追記&修正

References

References
1 ” Eine Studie in Scharlachrot I: Drebber” https://youtu.be/Cyh3ZOfpMD0?si=qbqgSIgLw6sBVyV3
2 あるいは療養生活の間に生活リズムが乱れてしまうのというのもありそう
3 古い用例のメモ:その①その②
4 ※自信はない
5 https://www.vocabulary.cl/english/wake-up-get-up.htm
6 https://www.etymonline.com/word/ungodly
7 「BBCラジオ版」と呼ばれることの多いシリーズ。BBCで制作・放送された正典ラジオドラマは他にもあるので、個人的にはMerrison版で分けて呼んでいる。